きのこ回文。
それはきのこmeets回文である。
きのこが回文に出会ったとき、そこには新奇にして未知数の物語が産まれるのである。
きのことは
きのことは、ある種の菌類が作る比較的大きな(肉眼的な)子実体(繁殖器官)のことを言う。
あなたが森に入ったとしよう。
すると何やら視覚的に異物感を持つ。
このとき視界の隅に存在するのがきのこである。
きのこの存在感は上方に向かって生長していく量感や、空間を滑らかに切りとる輪郭、種によって一貫性のある色彩等によって担保される。
「生えてる感」と言っても良い。
ちなみにこの「生えてる感」は菌従属栄養植物(ギンリョウソウなど)に対しても持つことが多いので、朱に交われば赤くなると言ったところであろう。
撮りきのこ派にとっては「生えてる感」こそがきのこの引力である。
「味」や「毒性」は二の次ということだ。
そうして今日もきのこの量感に、輪郭に、色彩に魅了された者が森へ入っていくのである。
回文とは
回文とは、前から読んでも後ろから読んでも同じ文字の並びという特殊性を備えた文である。
日本語は比較的自由度の高い言語である。
語順は入れ替え可能。
主語や助詞を省略しても文意が酌める場合が多い。
さらに仮名においては一音一字であることで、こと回文を作るに当たって非常に都合が良いのだ。
「竹やぶが焼けました」も少し工夫するだけですぐに回文が出来上がる。
しかし。
竹やぶは本当に焼けたのだろうか?
そこが回文という様式の産みだす「物語」である。
実際には火のヒの字も無い竹林に踊る炎。
「焼けた」と言い切るからにはおそらく全焼であろう。
やがてくすぶる熱気とすえた臭い。
そのようなものに思いを馳せながら人は言うのだ。
「竹やぶ焼けた(たけやぶやけた)」と。
回文の織りなす世界ではダンスは済んだし、イタリアでもカモでありたいのだ。
きのこ回文とは
そういったわけで、きのこ回文とは森の「生えてる感」と様式美からこぼれる「物語」の融合である。
きのこをテーマにした回文は独特の存在感を放ちながら、世界を滑らかな輪郭で切り取り、想像を色付けていくのだ。
最後に拙作をひとつ。
夜枝も 猫のきのこね 悶えるよ
(よるえだもねこのきのこねもだえるよ)
お粗末でした。
P.S.
回文の本ではないけれど、書名がきのこ回文になっているし、新井文彦氏の写真が美しいのでお勧めの一冊。
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